【とつとつメモ】5~とつとつダンスpart2 愛のレッスン~

Posted by on 11月 27, 2014 in Staff Blog, とつとつダンス part.2 愛のレッスン | 【とつとつメモ】5~とつとつダンスpart2 愛のレッスン~ はコメントを受け付けていません。

【とつとつメモ】5~とつとつダンスpart2 愛のレッスン~

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【とつとつメモ】5~西川勝と十牛図

 

看護師で臨床哲学者の西川勝さん(大阪大学特任教授)は、
『とつとつダンスpart2 愛のレッスン』(以下、『愛のレッスン』)の舞台上でワークショップをしています。

西川さんは、『となりの認知症』(2013年、ぷねうま舎)、『ためらいの看護~臨床日誌から』(2007年、岩波書店)など
看護・介護の現場を哲学する臨床哲学者として活動する一方、
尾崎放哉を自らの人生に重ね合わせながら読み解く『「一人」のうらに~尾崎放哉の島へ』(2013年、サウダージブックス)を出版し、最近では横浜トリエンナーレの釜ヶ崎芸医術大学のコンテンツのひとつとして、
横浜近代美術館で哲学の講義を行ったりしています。

僕(豊平)とは、シリーズとつとつが始まって以来の付き合いなので、
もう5年目になります。考えてみれば長いですね。

『愛のレッスン』舞鶴公演でのワークショップシーン

『愛のレッスン』舞鶴公演での西川さんのワークショップシーン

上の写真は『愛のレッスン』でのワークショップシーンです。
これが勘違いされることが多い。

勘違いにはいくつかあります。

ひとつは鑑賞前。
パフォーマンスの前後に解説の意味合いでレクチャーがあるのではないか、というもの。

もうひとつは鑑賞後。
舞台上で繰り広げられるワークショップシーンに台本があるのではないか、というもの。

まず前者。
パフォーマンスとレクチャーは分離してないのです。
あくまでダンス公演『愛のレッスン』の一シーンであり、解説ではありません。
『愛のレッスン』というお題に西川さん参加者と共に向き合っているだけなのです。
これは「シリーズとつとつ」でのとつとつダンスワークショップと一緒です。

とつとつダンスワークショップでの西川さん

とつとつダンスワークショップでの西川さん


後者。
台本はありません。
豊平が舞鶴、大阪ではワークショップ参加者の一人になっていますが(東京、仙台はどうなるかわかりませんが)、
毎回そのとき初めて聴く話です。
ましてやもう一人の参加者は西川さんの話を聴くこと自体初めてでした。
舞台上で行われると、すっかりフィクションの一部に見えてしまうのが不思議です。
(このあたりは「舞台芸術」という表現の問題に踏み込んでいくことになりますが、豊平の手に余るので割愛)

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さて、「とつとつメモ」では書き続けておりますが、
西川さんにしても、伊達さんにしても、久保田テツさんにしても、
『愛のレッスン』という作品ありきで参加してきているわけではありません。
砂連尾さんを中心に全員で0からクリエーションしているのです。
その中で、まさにとつとつと現在の舞台が出来上がっていきました。

特に、西川さんは「愛のレッスン」というタイトルの名付け親であり、「十牛図」を根幹のテーマに据えた張本人です。

西川さんが最初に砂連尾さんに見せたメモ

西川さんが最初に砂連尾さんに見せたメモ

「愛のレッスン」はともかく「十牛図」の説明は会場でお配りするパンフレットにありますが、
(そして「シリーズとつとつ」の説明は緑のブックレットにありますが)
これを舞台の前にご覧になる方は少ないかと思います。

ウィキペディアの「十牛図」を最初の手掛かりにしてもよいかもしれません。
牛(悟り)を求めて童子がさまよう十枚の図からなる物語とでもいえばよいのでしょうか?
考えれば考えるほど、深く、安易な解釈を許さない。

ともあれ、強引にまとめると以下のような感じにります。

==============
ある子供が牛がほしくて探しにいくことにします(尋牛)。
牛の足跡を探して(見跡)、牛をみつけて(見牛)、牛を捕まえます(得牛)。
飼い慣らして(牧牛)、牛に乗って家に帰ります(騎牛帰家)。
牛のことを忘れます。実はほしかったものは牛ではなく自分の中にはじめからあったわけです(忘牛存人)。
==============

ここまでは悟りの過程として未熟な僕でもわからなくはないです。
見知らぬ世界を求めて冒険の旅に出たとしても、実は身近なものの中に見知らぬ世界は潜んでいる。
「伊達伸明の世界」みたいですし、僕のやっている文化人類学もそういう学問だと思います。

『愛のレッスン』における解釈は当然、ご覧になったあなたに委ねられているわけですが、
現時点での豊平が思うに、十牛図の奥深さは次の段階の3枚の図にあります。
この文章を読む人も少ないと思うので、流れで書いちゃいます。
変な影響を受けたくない人はここで読むのをやめて写真だけ目で追ってください。

人牛俱忘(にんぎゅうぐぼう) http://urx.nu/ezZ5

人牛俱忘(にんぎゅうぐぼう)
http://urx.nu/ezZ5

返本環源(へんぽんげんげん)http://urx.nu/ezZa

返本環源(へんぽんげんげん)http://urx.nu/ezZa

入鄽垂手(にってんすいしゅ) http://urx.nu/ezZh

入鄽垂手(にってんすいしゅ)
http://urx.nu/ezZh

 

 

 

 

 

 

 

 

最後は「自分のことも忘れる」のです。
そこでは牛(悟り)も人(それを追い求める主体)も消えて(人牛倶忘)、
自然そのものになります(返本環源)。
牛が人であり、牛が人になります。
そしてまた俗世に戻り、教えをその中で活かすことになります(入鄽垂手)。

***
現在の社会はすべてを「個」にどんどん収斂させようとします。
オリジナリティを大事に!!!
「権利」も個人がそれぞれもつものだし、
実力主義というもの、成功も失敗も個人に責任があるとするものです。

でも、本当にそんな単純なものなのでしょうか?
そうではなくて、牛と人が同じであり、僕らが違うと分類していたものの境が曖昧になっていく。
自分が自分だけでもなくて、他人が自分でもあり、自分が他人でもある。
そんな考えがありうるのだとすれば、それはどんな在り方で社会にとってどんな意味をもつのでしょうか?
まったく上手に書けませんが、十牛図はそんな問いを僕たちに投げかけているように思います。

西川さんが出した「十牛図」というテーマは、
出演者の岡田邦子(グレイスヴィルまいづる入居者)の人が舞鶴公演でつぶやいた
「愛はひろくて、ふかくて、むずかしい」という言葉に呼応して、
僕らを不思議な世界に導いていきます。

それは一見遠い見知らぬ話に聞こえて、
実はもっとも切実な愛の問題と結びついているような気がしてならないのです。

公演における西川さんのワークショップシーンも、
そこに接近していく手掛かりとして機能しているのです。

メキシコ紀行中の西川さん。池田光穂さん撮影

メキシコ紀行中の西川さん。池田光穂さん撮影


torindo豊平 2014.11.27


 

 

 

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